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日本初のコーヒーチェーン「カフェー・パウリスタ」誕生の経緯から現在まで

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今回は日本初のコーヒーチェーンがどのような経緯で誕生し、どのような存在だったのかをお伝えさせていただきます。

 

 

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カフェー・パウリスタが誕生した経緯

カフェー・パウリスタは1911(明治44)年11月に銀座に誕生しました。誕生する経緯には、移民が関わっています。移民とは労働などの目的で、他の国に移住をする人のことなどを指します。

 

1908(明治41)年に、ブラジル移民となるべく、大勢の日本人が笠戸丸という船に乗ってブラジルへ向かいました。気になるのはなぜ、移民になるのかということです。

 

当時、ブラジルは今までコーヒーの栽培を奴隷に行わせていました。しかし、1888年に奴隷制度は廃止され、ブラジルのコーヒー農園では働く人が足りない状態でした。ブラジルはヨーロッパ諸国から移民を受け入れました。しかし、あまりの労働環境の劣悪さにイタリアから来た移民たちは反乱を起こしました。

 

そこで、労働力が足りなくなり、ブラジルは日本から移民を受け入れることにしました。ブラジル政府から要請されて、日本人移民を送り出したのは「皇国植民会社」です。この会社を創立した人物がカフェー・パウリスタの創業者「水野龍(みずのりょう)」です。

 

当時、同じ頃、日本では人口増加による食糧不足、日露戦争帰還兵の失業者問題が深刻化していました。農民たちも苦しい生活をしていたため「皇国植民会社」が掲げていた高待遇な条件は、渡りに船とも言えるものでした。

 

そして781名の移民を乗せた船「笠戸丸」は1908年にブラジルに向かいました。しかし、労働環境は過酷で奴隷のような働きを強いられ、ストライキや夜逃げが相次ぎ、コーヒー園の労働に定着したのは笠戸丸でブラジルに向かった人のうちの4分の1とも言われ移民事業は失敗という結果となりました。

 

ただ、ブラジル移民事業に貢献したということ、また日本でのブラジルコーヒー普及を目的として、水野龍氏はブラジル政府からコーヒー豆を毎年1000俵(約70トン)を無償供与されることになりました。

 

そこで、ブラジルコーヒーを普及するために水野龍氏が立ち上げたのが「カフェー・パウリスタ」という訳です。ちなみにパウリスタは「サンパウロっ子」という意味です。

※サンパウロはブラジル東南部に位置する州の名称

 

カフェーパウリスタはどのようなカフェだった?

現在の喫茶店の使われ方の原型になっている!

カフェー・パウリスタが誕生した頃の日本の喫茶店事情としては、菓子やパンとともにコーヒーを提供する「木村屋」、台湾喫茶店と呼ばれコーヒーよりもウーロン茶を主とした「ウーロン亭」など、数は少なかったもののコーヒー店はいくつかあるという状況でした。

 

1911年4月に初めてカフェを名乗る「カフェー・プランタン」が銀座に開店しました。カフェー・プランタンは会員制で一部のインテリ層を中心に支持されたある種クローズドなものでした。

 

カフェー・パウリスタは1911年11月に銀座に誕生しました。

プランタンが一部の知識人向けのカフェであったのに対して、パウリスタは学生や社会人、文化人など幅広いお客さんから支持されたカフェでした。営業時間は午前9時から夜11時まで。コーヒー5銭、ドーナツが2つで5銭でした。(当時もり・かけそば3銭、活動映画15銭)異国の味を比較的リーズナブルな値段で楽しめるということで、人気を獲得しました。多い時には一日4000杯のコーヒーが飲まれたといいます。

 

パウリスタはお客さんはコーヒーを飲みながらおしゃべりに興じ、空き時間に利用されたり、現在の喫茶店の原型となるような使われ方をしていたようです。

 

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当時の著名人がパウリスタを実際に使用した感想

当時のパウリスタ周辺は、朝日、読売、国民、万朝報、時事新報などの新聞社や外国商館が集中していました。ラジオもテレビもない時代。新聞社の近くにあるパウリスタは立地条件としては最高であったと言えるでしょう。

芥川龍之介、与謝野晶子、菊池寛…など多くの著名人がパウリスタの話題を聞きつけ訪れたと言います。

 

芥川龍之介氏は、原稿を届けるための待ち合わせ場所としてパウリスタを愛用していたそうです。自身の著である『侏儒の言葉』の中で「今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません」パウリスタを賛美しています。

 

また、1927年に発表した『緑の騎士』で、大衆から人気を獲得した作家の小島政二郎氏もパウリスタについて語っております。

 

「パウリスタは、コーヒー一杯で一時間でも二時間でも粘っていても、いやな顔をしなかった。丁度時事新報社の真ン中だったから、徳田秋声や正宗白鳥なども、原稿を届けに来たついでに寄って行ったりした。私達文学青年にとって、そういう大家の顔を見たり、対話のこぼれを聞いたりすることが、無上の楽しみだった」

 

また、小説家の久保田万太郎氏は『甘いもの話』の中でパウリスタを「我々はどこにもそうした静かな天地をもっていなかったのである。」「中学の末から大学のはじめにかけて我々に許された飲食の場所と言ったら汁粉屋とミルクホール。やや進んで蕎麦屋があったばかりである。しるこ屋にもミルクホールにも蕎麦屋にもそうした天地は見いだせなかった。」と評価しています。

 

パウリスタでは多くの文化人が語り合っていました。庶民の憩いの場であっただけでなく、文化の発展に大きく貢献した場所でもあると言えるでしょう。

 

パウリスタの展開と収束

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写真:現在のカフェー・パウリスタの店内

 

カフェー・パウリスタは日本初のコーヒーチェーンです。

全国に展開した目的は前述したように「ブラジルコーヒー」の普及のためです。銀座本店にはじまり、北は札幌から南は博多、そして海外は上海、20店を展開しました。

 

全国にブラジルの本格的なコーヒーの味を伝えたパウリスタでしたが、1923(大正12)年に喫茶店の規模を縮小しました。理由は、ブラジルからコーヒーの無償供与の期限が切れたことと、東京都内の店舗が関東大震災ですべて崩壊したことです。

 

その後は、百貨店や軍隊にもコーヒーは納入するなどの、コーヒー豆の輸入・焙煎業にシフトしていきました。大正期の日本でコーヒー文化を庶民に広めたという功績は大きかったと言えるでしょう。

 

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現在もパウリスタは銀座で営業を続けております。来日中のジョンレノンやオノヨーコが何度もコーヒーを飲みに訪れたことでも有名です。

日本国内最古のコーヒーショップとも言われており、興味のある方は実際に訪れてみるとよいかと思います。

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